「時計」と「メダル」がなりきりアイテムに選ばれた理由とは?(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち⑤) |第 59 回「群像新人評論賞」予選通過作

なぜ「ウォッチ」と「メダル」なのか

なぜケータは「妖怪ウォッチ」を通してしか妖怪を見ることができず、「ともだち(と書いて奴隷と読む)」を呼び出しているのか。なぜ妖怪はともだちになるときに「妖怪メダル」を渡しているのか。はっきり言ってこれは「妖怪ウォッチ」と「妖怪メダル」を売りたいからだと思う。ADKで7月に主要都市圏の3~12歳を対象とした調査で「好きなキャラクター」の名前を純粋想起で記入してもらったところ、「妖怪ウォッチ」が男女小学生で圧倒的な割合でトップとなった。

『妖怪ウォッチ』はなぜヒットしたのか。 「クロスメディアの公式」という記事では、『妖怪ウォッチ』のゲーム内に「妖怪ウォッチ」と「妖怪メダル」を登場させたことを高く評価している。腕に付ける「妖怪ウォッチ」は、「仮面ライダー」の変身ベルトに置き換える「なりきりアイテム」と呼ばれる玩具で、子供への訴求力が非常に強く、「妖怪メダル」はロングヒットが狙えるコレクションアイテムだからだ。この2つは「おもちゃ業界のヒットの公式」に従って設定されたアイテムだと同記事は伝えている。[13]

©l5/ywp・tx

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私にはこの「ウォッチ」と「メダル」が違った意味で迫ってくる。何故、多くのアイテムから「時計(ウォッチ)」か「なりきりアイテム」になったのか。時計というものは時間を計るためのものであって、何かを見るためのものではない。「メダル」はどうか。メダルというと、オリンピックの金メダルなどといったようなものが頭に浮かんでくる。

「時計」と「メダル」に共通点があるとするならば、「目に見えない時間・業績を目に見える形で表す」ということと、「数値化すること」だと考える。「時計」は目に見えない時間を数値化してくれるアイテムだ。「メダル」はある人の業績を認めてくれるものである。「時計」と「メダル」は人間の生の営みの数値化し、物質化するものなのだ。

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人間を数値化できるというのは、人間の生の営みを数字に還元するものである。普通の人々の目には見えない妖怪というものを見えるようにしてくれる媒体である「ウォッチ(時計)」は、「妖怪」として表された各個人の個性を目に見える形で表してくれる。この「妖怪」というものを倒すために、他の妖怪を呼び出すためのツールとしても使われる。「時計」は、それ自体で数値化の暴力性を含んだ全体主義に他ならない。

妖怪が敗北してケータと友達になる証で渡す「メダル」は、その妖怪(個性)が如何なるものであり、如何なる点で「普通」あるいは「正常」とされる人間と違うのかを示すものとなる。このように考えると、ある人の個性を差異ではない社会の規範から外れたものと見なす過程が妖怪ウォッチで妖怪を見つけるもののように思える。この際、一般人が言う妖怪とは、現代人の多くが持っているとされるあらゆる精神的疾病であろう。今日の社会で誰でも心療内科に行ったら何かしらの病名をつけられるはずだ。ドラッグストアに行っても正常な肌のための化粧品はおいていない。敏感肌、傷んだ髪の毛のためといった様々な商品が多く並んでいる。このような社会は「普通」や「正常」という一遍的 な規範を設け、人々を裁断している。

妖怪が精神疾病だと規定するならば、その病名に当たるのが「メダル」だ。ある病気を診断書に書くために必要としているのが病名だ。ある意味で病名は、その病気の一般的な理解を共有する記号である。同じく、「妖怪メダル」はある妖怪の名前と性質までをも含む装置である。ある状態を具体的で客観的に把握するために統計を作り、点数をつけ、資料化して比較することは間違っている。数値化を通して得る具体性を追求することができないからだ。IQテストを考えてみよう。IQは頭の良さを数値化したものであるが、実際の頭のよさとは無縁なものだ。それが数値化の限界である。IQテストのようにある基準に沿った評価が別の基準の結果と必ず一致するとは限らない。その点数が逆転 している場合もよくみられる。

ある基準で人を規定し、「正常な状態」と「妖怪にとりつかれた状態(病を持っている状態)」に分けることは危険なことだ。「妖怪にとりつかれた状態」の時に、その妖怪を取り除かれる(その人の個性を抹殺される)という暴力性は、全体主義が持っている危険に他ならない。全体主義は全体の外に置かれる人々に暴力として働く。同じく、ある基準で人を規定することは、規定の外にいる人々には暴力として働くのではないか。

フーコーの『狂気の歴史』は近代社会が正常と非正常を分ける過程で現れた暴力を語っている。ミシッェル・フーコーによると人間が無知から目を覚まし、啓蒙された時代だと考えられている「近代」は、中世より優れた時代ではない。「神」を中心とした中世から「理性」と「普遍性」を重視した近代への移行は、それぞれの理論形式の枠にはまらせている点では同じだというのだ。理性と普遍性という枠を超えた全てを非正常的なものと見なし、抑圧した近代の代表的例は「狂気」である。

かつて「狂気」は「病気」と見なされていなかった。だが、理性中心の近代的パラダイムは心理学や精神分析を誕生させ、それを基準に正常的な精神状態と非正常的な精神状態が区分されるようになり、非正常的だと分類された人々は病院に監禁されるようになった。それは肉体的な監禁に精神的な監禁が加わっている点でより徹底的な暴力だ。フーコーは、権力に従順な身体を作り出すために閉鎖的な空間に個人を配置して位置を決定し、時間を細かく配分するようになったという。この配置は、試験という措置を使ってその位置を入れ替えることができる。それに不合格となった者は処罰され、それへ合格した者は真理とされるものへの近さを誇り、それを人に強制できる権力を手に入れる。こう して個人の能力や個性を数値化し、それに相応しいメーダルを褒美として与えるのが現代だ。

「妖怪ウォッチ」は正常と非正常を分けるツールとして使われている。「妖怪メダル」が非正常なものに貼られたレッテルでその非常識を削除したご褒美として与えられたものだとすれば、ケータが「ごく普通な小学校5年生」だということは重大な意味を持つ。「ごく普通」のケータは、「ごく普通なもの」の規範となり、「ごく普通」にはなりえなかった妖怪を次々倒して、「ともだち」という名の奴隷にする。と考えるとケータは一つの規範のモデルであり、ケータが考える非正常なものはすべて取り除かれるべき妖怪であり、そのためにケータが妖怪ウォッチの持ち主として選ばれたのだ。

近代を経て、科学と数学が支配する社会になった。科学と数学といった一つの基準が唯一な客観的かつ絶対的なものとなり、その枠の中で人間の生や社会、自然、思考さえも理解しようとする。統計資料で心理学、社会学、自然法則を作り、それが現実そのものだと考え込む。数値化された客観的人間は、人間としての主体性を取り消され、名前のない全体の一部となる。このように機械的な在り方はまだ自我が形成される前の子供に露出され、子供たちの欲望のみを刺激する結果になっている。より多くの機械的人間を生産するためではないかという陰謀論を提唱したいほどだ。


[13]            http://mag.sendenkaigi.com/kouhou/201409/hit-character/003117.php


<目次>

1.『妖怪ウォッチ』の異例的なブーム
2.『妖怪ウォッチ』が物語る「ごく普通」に覗える全体主義
3.ポストモダンと『妖怪ウォッチ』
3.1.妖怪と人間を「モノ」にする社会システム
3.2「妖怪のせいなのね、そうなのね♪」という台詞のポストモダン的側面
4.「全体」を脅かす存在、「妖怪」とポストモダン主義(①)(②)
5.なぜ「ウォッチ」と「メダル」なのか
6.「ともだち」の背後にある暴力と権力 

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「時計」と「メダル」がなりきりアイテムに選ばれた理由とは?(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち⑤) |第 59 回「群像新人評論賞」予選通過作」への7件のフィードバック

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  4. ピンバック: 『妖怪ウォッチ』の異例的なブーム(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち―エンターテインメントとなった全体主義と資本主義の暴力―①) |第 59 回「群像新人評論賞」予選通過作 | C

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  6. ピンバック: 妖怪と人間を「モノ」にする社会システム(『妖怪ウォッチ』に魅せられる子供たち③-1) |第 59 回「群像新人評論賞」予選通過作 | Clarapress

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