賛否両論が激しく分かれる『ジョーカー』を見てきました。
怖い映画はあまり得意ではないので、純粋悪のシンボルともいえるジョーカーの物語は残酷で強烈な殺人が続くだろうと勝手に決めつけていました。ですから放映開始からかなりの時間が経てこの映画を観てきたのです。そしてわたしはこの映画にすっかりはまってしまいました。
そのためにもうURLもなくなったこのブログを4年ぶりに再開しようという気持ちになりました。『ジョーカー』に対するわたしの感動が少しは伝わりますでしょうか。
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映画『ジョーカー』が作られるというニュースを耳にしたとき、内心心配しておりました。遺作になってしまったが故に幾分神秘的なイメージとして人々の脳裏に刻まれたヒース・レジャーの「ジョーカー」がいたからです。
映画『ダークナイト』のジョーカーは完全なる純粋な悪そのものでした。
それとは裏腹に2019年の「ジョーカー」は善と悪の区別が難しく悩ましいものでした。
DCコミックスのキャラクターを主人公にした映画ですが、ジョーカーではなく別のだれかに置き替えても問題ない「丁寧な犯罪スリラー」ともいえます。
『ジョーカー』はアーサーという疎外された男がジョーカーになっていく過程を繊細に描いていきます。
他のスーパーヒーローたちの映画がそうであるように華麗なアクションや勇壮な世界観を築くのではなく、CGでは表現できないジョーカーの壮大な悲劇なる喜劇をホアキン・フェニックスの光る名演技で再構成するのです。
商業的で大衆的ですが芸術性極まれりのこの映画はジョークを言う殺人者ジョーカーのリアルな顔と社会の不条理の素顔が剥き出しに描かれています。
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アーサー・フレックは普通の人とはかけはなれています。コメディアンになることを夢見るピエロであるアーサーは、ゴッサムの汚いアパートで障害のある母親のペニー(フランセス・コンロイ)と一緒に暮らしています。彼は発作的に笑ってしまう病気をもっています。そして常に笑いのネタを探して日記に書き溜めています。問題は彼がおもしろいと思うツボが人とはとても異なっているというところにあります。
人を笑わせるというコミュニケーションの行動は至って社会的な行動です。彼の母が「あなたが人を笑わせることができるの?」と首を傾げたように、ジョーカーは人に笑いを与えることには毛頭向いていない人物です。彼は周りから気味が悪いという評価を受けており、誰も彼に近寄ろうとしません。笑わせるためにピエロをやっているわけですが皮肉にも笑われているのがアーサーの現実でした。人々が笑う場面で彼は作為的に大きな作り笑いをすることもあります。
彼の人生そのものが泣いていながらも笑うピエロにも見えました。
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悪ガキどもに殴られ、蹴られ、信頼していた仲間からも裏切られるアーサー。それでも人々を笑顔にするピエロの職を愛していました。同僚の嘘によってピエロの仕事を辞めさせられた日もアーサーの発作的な笑いはとまりません。とまらない笑いが原因となり地下鉄で3人の若い白人男性を衝動的に殺してしまいます。
アーサーが殺した男性たちは若いエリートだったのでバットマンの父であるトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)はこの事件を政治的に利用します。衝動的な個人の殺人は富裕層への反感の故の殺人と化し、仮面をかぶらないと表に出られない卑怯な貧困層の反撃とみなしてしまうのでした。
ゴッサムの街に積み重ねられたごみやスーパーラットのように社会から捨てられて、捨てられたことさえも忘れられた貧困層の市民たちはピエロの仮面をかぶって街に出ます。
アーサーに感化されて暴動を起こすゴッサムの弱者たち。アーサーは怒り狂った彼らを見てだれかを笑わせる意味(ジョーク)を理解します。
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彼の母親ペニーは彼に希望と生きる意味を与えてくれた存在でした。
しかし、ペニーが自分の不幸の原因だったということを知ったジョーカーは救われることのない孤独と絶望を味わいます。
残酷で無慈悲な世界の中で融和されることない変人のアーサーは、薬に頼りながら「自分は笑ってしまう障がい者だ」というカードを持ち歩いて人々に了解を得ようと努力しました。彼は社会の一員として生きるごく普通の人生を夢見ていたのでしょう。しかし悲しいことに彼の精神疾患は母の虐待の結果だったのでペニーの願い通りに生きるのは皮肉なコメディーなのでした。そう悟ったアーサーは可笑しくて笑いがとまらず、ペニーを殺します。
今まで悲劇に思えたアーサーの人生は違った視点ではコメディーでした。アーサーは憂鬱な人生は嘆くのではなく、それ自体でおもしろいジョークに変わりました。殺人をジョークと考えることは笑えないですが、笑えないジョークをいうのがジョーカーですからそれも仕様がありません。
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アーサーの視点でゆっくりと進んでいくこの映画は今まで超越した悪に見えたジョーカーに人間性を吹き込みます。
ですから、この映画は人間ジョーカーに同情させ悪と暴力を美化するという声もありますが、わたしはむしろその逆だと思います。
簡単に銃が手に入ることの危険性、いつジョーカーに感化され犯罪が起きてもおかしいくらい不条理な社会に警鐘を鳴らしているからです。
知るはずのない弱者の人生を一言でまとめようとするマレーやトーマス・ウェインの行為も偽善的な暴力に他なりません。
アイロニーなことに、個人が犯した暴力や犯罪はニュースになって注目を浴びますが、社会が個人に行う暴力は忘れられがちです。いいえ、集団が個人に行う暴力は度々闇に葬られてしまうのが現実です。
社会的問題とアーサーの個人的な問題が合わさった結果が「ジョーカー」という悪魔なのです。どんな悪も正当化するのは許されがたいことですが、アーサーが置かれた状況を考えるとすべてが彼の責任だとはとても言いにくいです。
崖っぷちのアーサーを極限まで追い込んだ社会において、彼を哀れみ、慰める人は誰一人もいません。そんな彼に感情移入し同情してしまう場面があるのは否めないですが、そうさせないための作り手の努力も映画隅々にあります。道徳的なものを物語る映画だけが倫理的なのではなく、非倫理的な社会を描き私たちの心に警戒心を思い起こすことも映画の役目ではないでしょうか。
アーサーが人を殺すときは明るい音楽が流れます。その音楽に会わせてダンスを始めるミュージカル的な要素によって、わたしたちはアーサーというキャラクターに吸い込まれることなく客観的な視線を維持することができます。
そもそも映画全般に見受けられるアーサーの異常行動は観客が彼に完全な感情移入することを許してくれません。
ですから、共感することが難しいはずにもかかわらず、わたしたちはアーサーを見るとかわいそうで抱きしめてあげたくなる瞬間があります。犯罪者の心に共感する瞬間がどこで生まれるのでしょう。普通ではないはずの悪のカリスマの手本であるジョーカーのどんな部分に人々は共感するのかというのがこの映画を見る上で大事だと考えます。
大事なのはアーサーがどんな人なのかではなく、なぜ人々がアーサーに熱狂するかなのです。
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夢も希望もなくなったアーサーは母親のペニーを殺して、自分もコメディーショーで自殺するパフォーマンスを準備します。
ですが、計画は変わりマレーを殺して、社会の弱者たちが熱狂する怒りを代弁するヒーローになることを選びます。
ゴッサムの市民たちはジョーカーが見せる怒りと混沌に歓喜します。カオスの中で警察に捕まったアーサーが乗った車が間もなく救急車にぶつかってしまいます。ピエロをかぶった市民たちが気絶した彼を取り出して車の上にそっと寝かせておきます。
「起き上がれ」と叫ぶ民衆の声にジョーカーは目を覚まします。
警察の車の上で立ち上がったアーサーは指に血をつけ口の両サイドから頬骨に向けてなぞります。アーサーはほかのだれかではなく自分の血でピエロの笑顔を描き足して市民たちの「起き上がれ」という声に笑顔で応えます。ジョーカーを見た人々は歓喜に満ち溢れ、歓声をあげます。絶対的な絶望を笑いに変える「ジョーカー」になったアーサーは愉快な音楽に身を任せて優雅に踊ります。
疎外された一人の人間のジョークは世界とつながり、社会的な動きを爆発させたのです。彼は市民の英雄でしたが、彼らの思いと理念によって作り出されたピエロでもあります。アーサーはそれをわかった上で自らの手で大きく笑う口を描き、自ら見せ物のピエロとしてジョーカーを仕上げたのかもしれないですね。
混沌に満ちたゴッサムで踊るジョーカーが遠くなり、シーンは真っ白い病院に移り変わります。この物語はジョーカーの妄想かもしれないし、嘘かもしれないし、もしくは思い出話かもしれませんね。いや、結末も含めてすべてがジョーカーのジョークかもしれません。嘘と作り話がジョーカーの本質ですから。
現実と妄想が絡み合い真実と嘘の見分けがつかないカオスの状態、それがジョーカーです。
ですが、精神的に病んでいるのはアーサーだけではありません。妄想と分裂症で悩むのはわたしたちも一緒です。またわたしたちの世界もそうです。映画にゴッサムという場所を具体的に描いていないのは、わたしたち人間の普遍性の中にも内在した世界だからかもしれません。
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とにかく、ショーは始まりました。
人々が持つ悪の本性を笑わせるための悪魔のショーが。
そしてその悪魔はわたしたちの中にもいます。その悪魔、悩みの種ですね。